どうも、りかちゅうです!紫式部は宣孝と死別してしまいました。それから再婚をしたり他の人と子供を作ったりしたという話はそう聞かないです。ワンチャン宣孝が亡くなってから何かあってもおかしくないですけどね。道長とは愛人でしたし。ただ、紫式部は宣孝との子供は作っています。その名前は藤原賢子です。彼女は紫式部並みに活躍しました。いや、それ以上かもしれません。じゃなきゃ本名らしきものが残りませんからね。また、彼女は異性としての魅力もありました。ですので、この記事にてその話をしますね!
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藤原賢子のプロフィール
賢子は紫式部の娘であるものの教科書ではなかなか取り上げられない存在なのかなと。ですので、彼女のプロフィールから見たいと思います!
名前 藤原賢子
大弐三位という名前で歌人活動をしていたそうです
生年月日 999年
没年 1084年10月24日
備考
紫式部の一人娘でもあり大弐三位の名で歌人としても有名です。多くの恋愛のエピソードも語り継がれる人間だそうです。また、本名と思われえる名前が残っている時点で賢子の方が紫式部よりはるかに出世していたとも言われています。
藤原賢子の人生
以上が賢子のプロフィールです。紫式部よりも地位があるならもっと名前を出してもいいのにとは思いますね。まあ、そんなことはさておき、次に彼女はどのような人生を歩んだのかを見ていきましょう!
1.生い立ち
藤原賢子は、正確な生没年は不明です。ですが、999年に紫式部と藤原宣孝との間にに生まれたと推測されます。その根拠は宣孝が亡くなったのは1001年でありかつ、賢子が3歳の時に宣孝が亡くなったという説があることです。要するに、彼女は3歳でお父さんの存在を失ったことになりますね。そのため、彼女は紫式部の実家で暮らしました。とは言っても実家での暮らしに関する情報はそうないです、ただ、紫式部のお父さんこと為時は漢文に詳しい人だからこそ賢子は文学を教えてもらったこと間違いなしです。
2.彰子に仕える
1017年ごろに賢子は紫式部と同じように彰子に仕える女房となりました。その時の賢子の年齢は10代です。彰子の女房になれば紫式部のそばにいることができますね。ちなみに女房になった賢子は為時が越後守と左少弁という役職をつとめていたことにちなんで「越後弁」という女房名がつけられました。
3.結婚と再婚
7日関白で有名な道兼の息子こと藤原兼隆と結婚し娘ができます。結婚と言っても一時的な恋愛ですぐに離婚したそうです。それから1037年頃に東宮権大進という役職を持っていた高階成章と再婚します。その人とは40歳頃に息子を出産しています。ちなみに、賢子は恋多き女です。この話の詳細は後ほどしますね。
4.後冷泉天皇の乳母になる
1025年に後冷泉天皇の乳母の1人に選ばれました。その際に賢子は天皇の教育者かつ政治的助言者としての重要な位置を占めていたそうです。それもあって、弁乳母とも呼ばれていたらしいです。このような立場だからこそ、彼女は宮廷内での大きな影響力をもたらしたでしょうね。その証拠として「栄花物語」という作品では賢子のことをこのように評価しています。
月の夜、花のをり過ぐさせたまはず、をかしき御時なり。弁の乳母をかしうおはする人にて、おほしたて慣はし申したまへりけるにや
「栄花物語 巻第三十六 根あはせ」より
賢子は名前通り賢いからこそ教育係として活躍できたのかと思われます。
5.従三位になる
1045年に後冷泉天皇が即位すると賢子は内裏にのぼる資格を持つ従三位を賜りました。この役職はトップクラスです。男性ならば公卿と呼ばれる上級官僚です。また、賢子は典侍という後宮の女官に任じられて後冷泉天皇の側近くに仕えました。ちなみに、この頃の賢子は「典侍」という役職名や「藤三位」などの通称で呼ばれていたようです。また、高階成章が晩年大宰大弐という役職についていたことから、「大弐三位」とも呼ばれるようになりました。賢子の歌人名こと大弐三位はここに由来しています。
6.晩年
賢子の晩年に関する史実はそこまで残っていないです。だた、左右の組に分かれて歌の優劣を競い合う「歌合」などの記録を見ると賢子は80歳頃まで和歌を残しているそうです。となると、賢子は少なくとも80代に亡くなった可能性はありますね。
藤原賢子のエピソード
以上が彼女の人生です。晩年まで活躍していたことが伺えますね。80代でも歌人をやれるなんて相当クオリティーの高い和歌を書いていたのかと思いますよ。きっと魅力があるからいい和歌が書けるのかなと。だからこそ、次に彼女の性格などがわかるエピソードを見ていきましょう!
1.ユーモアのある和歌を書く
賢子の和歌の表現はユーモアがあります。例えばこちらです!
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
「大弐三位集」より (「後拾遺和歌集、恋二、七〇九」)
最近姿を見せない恋人が賢子は自分のことをを忘れてしまったのかという手紙をよこしてきたらしいです(だったらその恋人が賢子に会いに来いと思いますが)。あおこで賢子はこのような和歌で思いを綴ったそうです。この和歌は笹を揺らす風の音を「そよそよ」と全くその通りという意味の「いでそよ」という言葉をかけました。そのようにすることで恋人に「本当にそうなのよ、忘れているのはあなたの方ではないですか。私がどうして、あなたを忘れたりなんてできるのよ」と暗に訴えています。自然のものと掛け合わせた表現はそう来たかと思ってしまいました。
2.恋多き女
ユーモアのある賢子のもとには将来有望な貴公子たちから次々と求愛の歌が届きました。サラブレッド公任の息子の定頼や、道長の息子の頼宗、源朝任などと恋の歌を交わしています。具体例としてはこちらです(頼宗に向けた曲です)!
恋しさの 憂きにまぎるる ものならば 又ふたたびと 君を見ましや
あなたを恋しく思う心が、些事に気が散ってまぎれるぐらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか。まぎれるものではないから、お会いしたいのです。
これはあくまで一例です。他にも恋の和歌はあります。ただ、先ほど名前を出した男たちとは結婚していないです。
3.和歌の表現がわかりやすい
賢子の和歌は繊細な感性と深い洞察力があったため当時の歌合わせなどで高い評価を得ています。どうやら読んだらその状況をダイレクトに読み手に伝えるような和歌だそうです。例えばこちらです!
こひしさの うきにまぎるゝ ものならば またふたゝびと 君を見ましや
こちらは藤原頼宗に書いた和歌です。恋しさが紛れないからこそまた会いたいという思いを直接的に表現しています。ダイレクトに自分の気持ちを言っていますね。
まとめ
性格や文面は紫式部と違いますね。紫式部は内向的で目立ちたくない性格でした。一方で賢子は社交的で恋多き女ですね。和泉式部と同じものを感じました。ここはお父さんの宣孝に似たんでしょうね。また、紫式部の文面は難しいです。主語が少ないし表現が複雑な気がします。一方で賢子はダイレクトな表現だから現代人でもすぐにわかりますね。このように、親子共に活躍したものの性格に違いがあるのが面白いなと思いました。きっと賢子は宣孝との関わりはそうないとしても宣孝譲りの一面はあるのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。