どうも、りかちゅうです!2024年の大河ドラマのタイトルは「光る君へ」ですね。ドラマを見ていない人からその「君」って誰のことかはドラマを見てる人ならば分かりますよね?それは道長のことです。今回はその彼のことについて話そうかなと。登場タイミングが意外と遅いって?主人公との関係が深いならもっと早くに書いてもよかったのではと。言われてみたらそうですね。ですが、なぜか道長のことを書くタイミングがずっとなかったんですよね。今まで他の人の方が目立っていたからこそ。まあ、そんなことはさておき、道長のことをこれから話します!

藤原道長のプロフィール

道長は学校の教科書でも名前に出てきます?それくらいの実績があるから名前に載るんでしょうね。だとしても彼のことをそこまで詳しくない人もいます。ですので、まずはプロフィールから見ていきましょう!

名前 藤原道長

生年月日 966年

没年 1028年1月3日

備考

平安時代の最高権力者です。その絶頂期に娘3人を相次いで宮中に送り込みました。3人も天皇と関係があれば道長は天皇の外祖父として活躍し放題ですね。ただ、権力のためなら強引な一面はありました。

※道長は権力を得た時酔った勢いで「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という和歌を作りました。この和歌は百人一首に載っています。

藤原道長の人生

以上が道長のプロフィールです。どうやってここまで権力を得たのと思いますよね。ですので、これから彼の人生について話しますね。

1.生い立ち

道長は966年に藤原兼家と時姫の三男として生まれました。お兄さんの道隆と道兼は後に関白となりました。また姉2人は皇太后となっています。この生い立ちは権力者のなる家そのものですね。それもあって、986年に兼家は道長の姉こと詮子が生んだ子を「一条天皇」として即位させ兼家は摂政に就任します。そのため、道長は兄たちとともに朝廷内で順調に昇進を重ねていきました。

このころ、源倫子(みなもとのりんし)という女性と結婚し、将来、一条天皇の后(きさき)となる娘を授かっています。

2.結婚事情

まず道長は987年に源倫子という女性と結婚しました。実は倫子の方が家柄が上だったとか。それでも結婚できたのは倫子のお母さんが道長のことを気に入ったからです。それから988年には長女の藤原彰子が誕生しました。ちなみに、倫子は彰子以外にもたくさんの子供を産んだそうです。この事実は道長にとっては最高な話でしょうね。

3.父・兄の死

990年に摂政から関白になっていた兼家が亡くなります。その後、長男の藤原道隆が関白職を継ぎましたが995年に病を得て出家し間もなく亡くなりました。となると、道隆の息子が後ぎになると思いますよね?実は違います。道隆は生前、息子の伊周を関白にするように天皇に願い出ています。しかし許しが出なかったため道隆の弟の道兼が関白に任命されます。ですが、その道兼は就任後7日で急死してしまいました。もちろん次は道長が関白候補となります。ですが、当たり前ですが伊周はそんな状況を良くは思いませんでした。

4.伊周との対立

道長と伊周が権力争いを繰り広げます。状況としては一条天皇は伊周を推していたそうです。ですが、道長の姉でもあり一条天皇のお母さんこと詮子は道長を推薦します。そのため、一条天皇は詮子の強い説得に折らざる得なくなり、995年5月に一条天皇は道長に内覧の宣旨を下しました。そして、996年には伊周とその隆家が女性関係を発端に花山法皇に向けて従者に矢を射させるという事件を引き起こしました。長徳の変ですね。この影響で伊周は大宰府に左遷されました。その結果道長は名実ともに権力を強めます。

5.一帝二后をするみちなが

999年に道長は娘の彰子を一条天皇の女御として入内させ1000年には彰子を中宮こと天皇の后にしました。でも、一条天皇には既に定子という中宮がいるだろって?それはそうです。ですが、道長は中宮だった定子を皇后にするという形で彰子を無理やり新しい中宮としました。前代未聞の一帝二后です。ただ、この年の12月に定子が出産後まもなく逝去したため彰子が一条天皇の后となりました。それから、彰子は1008年に後の後一条天皇となる敦成親王を出産しました。

 

6.道長の全盛期

1011年に一条天皇の譲位によって三条天皇(三条天皇の母は道長のもう一人の姉こと超子です)が即位すると道長の娘こと妍子を中宮にさせます。その時も道長はそのため、強引に妍子を中宮にさせたとか?道長と三条天皇はあまりよい関係ではありませんでした。そこで道長は1016年に三条天皇を強引に退位させ自分の孫の敦成親王を「後一条天皇」として即位させます。それから、道長は1018年には後一条天皇の元にもう一人の娘こと威子を入内させて中宮にしました。このように、道長は一つの家から3人の后を出すという功績をつくりました。これは天皇すら道長に逆らえないという状況だったそうです。

 

7.最期

道長の晩年は病に苦しみます。どうやら、次第にやせ細り視力の悪化や胸の痛みに苦しんだとか。そして1027年藤原道長は背中にできた腫物により62歳でこの世を去ります。腫れ物の原因は現代で言う糖尿病が原因となり感染症を引き起こしたのではないかと言われています。

 

藤原道長のエピソード

以上が道長の人生です。これを見ても3男でも権力者として活躍できたのは伊周との対立に勝ったからでしょうね。それから強引な点はあるものの着実に権力を得たのかなと。まあ、そんな彼だからこそエピソードはつきものです。ですので、これから話しますね!

1.思った以上の野心家

道長は5男だったためお兄さんたちが活躍している時はさほど注目されていませんでした。ですが、野心や向上心は人一倍あったといわれています。具体例としては兼家が公任のことを「うちの息子たちは公任の影も踏めない」と誉めたり羨ましがったりした時に兄組は大人しくなったそうです。ですが、道長は「影を踏むのではなく、公任の顔を踏んづけてやりましょう」と言ったそうです。また花山天皇が深夜の宮殿を巡るという肝試しを命じた時、兄組は逃げ帰ってきてしまいました。ですが、道長は一人で大極殿まで向かっていきました。それだけではないです。実際に行った証拠として柱を削り取った木片を持って帰ってきました。このような精神力あるから後に権力を握ることができたのかもしれませんね。

2.建築が好き

道長は自邸や別荘寺院の建築にも熱心でした。どうやら病になって出家してからは自邸の隣に「無量寿院」という阿弥陀堂を建てて住まいとしています。その後、道長は敷地内に金堂などの建物を整備し極楽浄土のように華やかといわれた「法成寺」を創建しました。出家してから自分の趣味に時間をかけたのかもしれませんね。

 

3.孫が大好き

道長が自分の孫を溺愛する描写が「紫式部日記」にあるそうです。内容はこちらです!

ある時は若宮におしっこをかけられてしまったけれど直衣を脱いで几帳の向こうで火にあぶらせて乾かしながら「ああ、若宮のおしっこで濡れてしまったよ、お元気で何よりだ。こうして濡れた着物を乾かしていると、夢が叶ったという気持ちになるね」とご満悦でいらっしゃった。

おしっこをかけられて夢が叶ったと感じるなんてなかなかの溺愛ぶりです。将来孫が出世を助けてくれる存在だからといってもと思ってしまう私です。こんな考えできる人そういないでしょうね?ちなみに、この時の道長は43歳です。

道長の功績

道長は平安時代で最高の権力を得たものです。だとしても、何をしたのと思いません?ですので、その話をしますね。

1.摂関政治で権力者に

摂関政治とは天皇に代わって「摂政」または「関白」が政治を行うことです。ちなみに、摂政は天皇が幼いときや女性の場合に政治を代行する役職で、関白は成人した天皇の補佐役です。もちろん、藤原家は代々娘を入内させて天皇家の外戚になることで摂政や関白の役職に就き権力を握ってきました。その中でも道長はこの手法を最大限に利用し3人の娘を入内させて摂関政治の全盛時代を築きます。

ただ、道長は1年しか摂政を務めていません。なんなら関白にもなっていません。なんでなのか?実は摂政や関白になると貴族の重要な会議に出席することができないからです。そこで、道長は「内覧」(関白に準じる役職)になったおかげで天皇を補佐しながら左大臣として貴族の会議の主導権を握ることもできました。

2.文学作品に貢献

道長は文学が大好きだそうです。漢詩や和歌を詠むのが好きで歌会のようなイベントもよく開いていたとか。また、恋多き女こと和泉式部に恋愛体験記を書くようにすすめたのも道長といわれています。

紫式部とはどういう関係だったのか?

「光る君へ」では道長と紫式部は両思いですよね。肩書きのない関係でも2人の絆は深いかと。では実際はどうなのか?

少なくとも道長は早くから紫式部の才能を見込んでいました。もちろん、道長は源氏物語の大ファンでありました。そのため、紫式部のもとにやってきてはいつも原稿の催促をしていたそうです。あと、恋愛面の方なんですが、史実では2人は愛人だったそうです。実際に道長の正室こと倫子が2人の関係に相当嫉妬したという話はあります。倫子は道長には複数の女がいることくらいわかっています。それなのに、紫式部と道長の関係に思い入れが強いです。となると2人の関係は特別な可能性は高いかと思われます。

まとめ

強引にことを進めている一面もありますが孫に溺愛している点は面白いと思いました。仕事の時の顔とおじいちゃんの時の顔は違いますね。きっと仕事だからこそ鬼になっていた一面はあったのかと思われます。そう考えると彼は強引に事を進めたのは事実ですが本当の性格は違うのかと思われます。以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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1件のコメント

  1. ピンバック: 道長の栄華の和歌!望月の歌とは何か? - Rikachu’s theory

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