どうも、りかちゅうです!道長は平安時代が栄えている頃に権力者となりましたね。とは言っても、彼が権力を得てから息子たちがどうなったかと言ったらなんとも言えないですけどね。世の中は盛者必衰じゃないですか?ずっと栄えているなんてことはないです。まあ、そんなことはさておき、道長は自分が権力を得て栄えていた時にある和歌を歌います。それは「望月の歌」です。この和歌は公の場で披露したため有名になりました。では、どんな和歌なのか?この記事にて話したいと思います!
藤原道長とは何者?
道長は966年に藤原兼家と時姫の間に生まれた平安時代の有名貴族です。ちなみに、藤原兼家の一族は摂関政治を行うことで権力を築いた藤原北家です。とは言っても、道長は道隆や道兼というお兄さんが既にいたためお兄さんが生きていた時はさほど目立ってはいませんでした。ですが、道長は負けず嫌いだったため直向きに力を蓄えていました。その結果、道隆の長男こと伊周との権力争いに勝利するのはもちろんのこと、自分の娘を次々と天皇の妻として摂関政治の最盛期を築きました。その最盛期には天皇すら逆らえないほどの権力を握ります。三条天皇ですら負けましたからね。このように、彼は三男でもめげなかったことから出世をしました。
※道長の詳細はこちらの記事を見てください!
望月の歌って何?
「望月の歌」は道長の和歌とは言われてもどういうものなのか分からない方もいるのかなと。ですので、次に望月の歌の詳細を話しますね!
和歌とその意味
望月の歌とはこちらです!
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
この世の中は、私のためにあるようなものだ。望月(満月)と同じように私に欠けるものは何もない。
私のためにあるなんてなかなかなことを言いますね。なんで一見傲慢そうなことを言ったのか?それは後ほど話しますが3女を天皇のところに嫁がせたからかなと思われます。これで摂関政治がまたできますからね。要するに、道長にとってこの和歌を歌った時は絶頂の時だったんですよ。それ故にこのような和歌を作ったのかなと思われます。
望月の歌の話はどこに書かれてるの?
実はこの望月の歌なんですが道長の日記には書かれてないんです。では、元ネタはどこなのって?当時右大臣をやっていた藤原実資の日記こと「小右記」に書かれているそうです。その日記にによると望月の歌が詠まれたのは1018年の10月16日だそうです。その時は道長と倫子との三女である威子が後一条天皇の后となった日でした。
望月の歌が作られた背景
和歌とは自分の思いを伝えるものです。だからこそ、その和歌を作った時どんな状況だったかは知っていた方が道長の心情は掴めるのかなと。ですので、そこらへんの話もしますね!
背景
藤原道長が権力を掌握するため様々な手法を取っていますが、代表的なのは自分の娘たちを宮中に送り込むことです。道長はその手法には成功しています。まずは長女の彰子です。一条天皇のところに嫁ぎましたね。それから次女の妍子があの三条天皇の后となりました。それだけで終わりではないです。威子が後一条天皇のところに立后ひました。要するに、「一家三后」ってことですね。これは未曾有の事例だそうです。これで道長の権力はしばらくは安泰ですね。
どのような場で和歌を披露したのか?
先ほども述べたように、望月の歌は威子が後一条天皇の后となった日です。お祝いの席では道長や息子の頼通、藤原実資などの政界の重鎮が盃を回していました。その際に道長は藤原実資に向けてあらかじめ返歌を求めた上でこの歌を即興で詠みました。それなのに、望月の歌を聞いた藤原実資はあまりに優れた歌であるため返歌は詠めない、だから皆でこの歌を復唱しようと言ったそうです。斜め上なことですがその場にいた人たちは望月の歌を繰り返したそうです。また、道長は返歌をしなかった藤原実資を責めることはなかったそうです。
別の解釈
摂関政治の最盛期を築いた道長は晩年は現代の糖尿病で苦しみます。実は望月の歌を詠んだ頃には糖尿病に伴う視力の悪化や胸の痛みなどに苦しんでいたそうです。このように、和歌を作った時期は絶頂ではないです。そのため、権力を得たことをアピールしただけの和歌ではないという説もあります。ですので、そこら辺の話をしますね。
不安
道長は不安の心は消えませんでした。まず道長は時には強引な手を使って政敵を排除してきたのは事実です。三条天皇との対立がまさにそうですね。そのため、いつか仕返しをされるのではないかと物の怪を非常に恐れていたそうです。さらに、お姉さんの詮子が亡くなった前後から仏教にも傾斜していったそうです。
月は満ち欠けのあるもの
当たり前ですが「月」は満ち欠けがあります。となれば、満月になった後は徐々に欠けていきます。そう考えると、望月の歌は今は権力者として生きていたとしても実は不安な気持ちがあったことを間接的に伝えているのではないかと思われます。そう考えると傲慢なようで傲慢ではないですね。むしろ、自分の陰りを見せてたまるかって思いがあるような和歌とも捉えられます。
まとめ
先ほども述べたように道長は一見傲慢なことを言っているなと思う点はありますよね。この世は私のためにあるなんて言うなんて。ただ、よく見たら強がっている一面はあるのかなとは思います。強かっているから満ち欠けのある月を和歌に入れるのかなと。逆に本当に傲慢だったら満ち欠けがないものを和歌に入れるも思います。
これを見ても、彼は栄華を得たとしてもいつかは儚く消え散ること分かっていたのかなと思われます。いや、分かっていたしその時病気をしていたから望月の歌を歌ったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。