どうも、りかちゅうです!道長は平安時代のピークの時の権力者をやっていました。だからこそ、私はそんな道長に抵抗したら追いやられるだけなのかなと思っています。それなのに、道長に対抗した人がいます。それは三条天皇です。彼は一条天皇の次に即位した天皇なんですよ。それで、一条天皇が亡くなってから色々対立したらしいです。道長に対抗するなんて度胸ありますね。一体何者なのか?この記事にて話したいと思います!
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三条天皇のプロフィール
三条天皇とは言っても誰と思いますね。有名な道長と対立しても知っているのは一部だけかと。ですので、彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 三条天皇
生年月日 976年2月5日
没年 1017年6月5日
備考
35歳になってから天皇になった人です。その当時では遅い即位だったそうです。また、道長の次女と結婚したのに道長とは仲があまりよくなかったそうです。理由は後ほど話しますね!
三条天皇のプロフィール
以上が三条天皇のプロフィールです。色々波瀾万丈でしょうね。ですので、彼の人生について話しますね!
1.生い立ち
三条天皇は976年に冷泉天皇の第二皇子として生まれます。ちなみに、お母さんは藤原兼家の長女こと超子です。三条天皇の生い立ちはなかなか波瀾万丈です。まず冷泉天皇には気の病があったとされわずか2年で譲位したそうです。それから冷泉天皇の弟こと円融天皇として即位します。ですが、円融天皇は兼家の圧力によりやむなく譲位に至ると冷泉天皇の第一皇子こと花山天皇が即位します。そんな花山天皇も兼家の画策で突然の出家し譲位しました(寛和の変ですね)。
このように、三条天皇の幼少期は天皇が変わる時期でした。こんなに変わりまくるって相当ですね。それで、本来ならば次の天皇は三条天皇です。ですが、そうはいきませんでした。
2.一条天皇の即位
986年に円融天皇の第一皇子こと一条天皇として即位しました。一方で三条天皇は兼家の後押しで東宮となりました。ちなみに、一条天皇当時6歳で三条天皇は10歳です。どう見ても三条天皇の方が年上ですね。そのため、「さかさ儲けの君」といわれたと伝えられています。儲けの君とは皇位継承予定者のことです。にしても、なぜ一条天皇よりも年上の三条天皇は即位されなかったのか?実は円融天皇は譲位する際に円融天皇の息子を花山天皇の東宮にするよう望みました。それが7歳で即位した一条天皇です。それ故に三条天皇は一条天皇の東宮に回りました。
3.三条天皇の結婚事情
987年に兼家の三女で叔母の綏子が東宮妃として入内します。また、991年に三条天皇は藤原済時の娘こと娍子(三条天皇は寵愛したとか)を東宮妃として迎えます。この娍子は花山天皇も入内を望んだほど美貌の誉れ高い人でした。それで終わりではないです。それから、道隆の長女こと原子までもが東宮妃となりました。しかし、その入内から3か月で道隆が死去しました。さらに、原子も22歳頃になくなりました。一方で娍子自身も済時がすでに亡くなっていたため三条天皇には後ろ盾がない状況でした。
4.道長の次女と結婚
このように、色々ごたっていますね。そんな時、道長が自分の次女こと妍子(を送り込みました。道長は権力を得るためにこのようなことをしたんでしょうね。そういう時に限って三条天皇は1011年に35歳で即位します。やっと天皇になれましたね。ですが、待遇はいいものではないです。実は三条天皇には18歳になる敦明親王という息子がいたにもかかわらず皇太子には彰子の産んだ後一条天皇が立てられました。道長は三条天皇の早期譲位をして欲しいからこのような内容を求めたんでしょうね。また、当たり前ですが道長は妍子を中宮に置こうとします。この考えに三条天皇はどう反応するのか?
5.道長と三条天皇の対立
三条天皇は道長に抗いました。まず三条天皇は長年連れ添った娍子を皇后としました。これは定子と彰子の時と同じように二后になってしまいましたね。そんな対応に道長も負けてなれません。なんと、その立后の儀に道長は公卿らと参内を拒むなど妨害します。この事件の影響で三条天皇と道長の亀裂は決定的となりました。また、三条天皇は即位後すぐに目の病を患いました。そこで、道長は強く退位を勧めます。それに対して三条天皇は意地でもとどまろうとします。
6.最期
三条天皇は道長に対して対抗しました。ですが、その影響で2年連続で内裏が焼失するという悲劇がおきました。また、長女の当子の密通事件などもあって三条天皇は失意の底に堕ちました。そのため、三条天皇は1016年に敦明親王を東宮とすることを条件に道長の枇杷殿にて退位しました。それから1017年に出家し程なく41歳で亡くなりました。
なぜ道長とは仲が悪かったのか?
後半の内容を見ても道長と三条天皇は対立していたことが伺えますね。ではなんでこんなに対立したのか?
1.超子の不在
一条天皇のお母さんこと詮子と道長は仲の良い姉弟でした。そのため、詮子は一条天皇と道長の橋渡し役にもなりました。ですが、三条天皇の御母さんこと超子は三条天皇が7歳のときに亡くなっています。そのため、三条天皇と道長はお互いに身内意識が薄かったと思われます。
2.三条天皇は妍子以外の人を寵愛していたから
三条天皇には娍子もことを愛していました。また、彼女との間にすでに多くの皇子がいました。となると、もし三条天皇の皇子が即位することになれば道長は天皇の外戚ではなくなってしまいます。これは道長にとっては都合が悪いですね。そのめため、道長は、姸子を三条天皇の中宮とするだけでなく彰子が生んだ敦成親王の即位を急ぐようになっていったのです。これは三条天皇からしたらいい思いしませんね。逆らいたくなる気持ちもわかります。
三条天皇のエピソード
以上が三条天皇の人生です。波瀾万丈でしたね。だからこそ、彼にはエピソードがあります。ですので、そこらへんも話しますね!
1.おじいちゃんの兼家に可愛がられる
三条天皇は兼家に可愛がられていました。理由は顔が似ていたからとか。「大鏡』」によると外見が兼家にとてもよく似ていたと書かれているそうです。それもあって、兼家は雷が鳴ったり、地震が起きたりした時はまず一条天皇ではなく三条天皇の元に駆けつけたそうです。
2.目だけではなく耳までも悪くなる
1014年3月に三条天皇は精神的な疲労によるものだったのか重い病にかかっていたそうです。具体的には三条天皇は「片目が見えず、片耳が聞こえない」「左目がほとんど見えず、鼻も利かない」と側近に打ち明けていたとか。ですが、三条天皇は天皇の位を去ろうとする時に明るい月を見ようという思いを込めた和歌が収録されています(百人一首に収録されています)。こちらです!
心にもあらで 憂世に長らへば 恋しかるべき 夜半(よは)の月かな
心ならずもこのつらい世に生き長らえたなら、(内裏で眺めた)夜更けの月を、恋しく思い出すことだろう……
色々巻き込まれていた人生だから書ける和歌ですね。ちなみに、この和歌の「月」は月は最愛の女性、皇后の娍子を意味しているという説もあります。
まとめ
一条天皇は道長に対抗するってことはなかったですよね。それもあって、三条天皇のアグレッシブさには驚きました。逆らったらめんどいことになるってなるのが大半ですからね?きっと、今まで天皇にならなかった環境だったからこそ道長が権力を持つことに対抗したのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう