どうも、りかちゅうです!「光る君へ」では誰が推しですかね?私は隆家ですね。理由は竜星涼くんが好きな方だからです。彼は面白いイケメンって感じがするじゃないですか?なんでこの話をしているのか?この記事で隆家のことを話すからです。彼は貴族なようで貴族じゃないです。武士らしいんですよ。良くも悪くも武術のあるお方でしたから。まあ、そのおかげで彼は実績を残しましたけどね。その実績は語り継がれるものです。何者と思いますね。ですので、この記事にて彼のことを話したいと思います!
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藤原隆家のプロフィール
隆家はただの貴族ではないです。だからこそ、いて欲しい人材ではあります。だからこそ、まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 藤原隆家
生年月日 979年
没年 1044年2月2日
備考
道長とバトルした伊周の弟です。そのため、長徳の変に加担しました。その際に花山法王に矢を放った者です。上手いように的中しました。そのため、一旦は追いやられたものの、あることを機に名誉挽回します。そのあることは後ほどわかります。彼は一般の貴族とは違うからこそできたことです。
藤原隆家の人生
以上が彼のプロフィールです。あかんことしても名誉挽回なんてすごいことです。何で挽回したのか気になりますね。ですので、そこを含めて彼の人生について話しますね!
1.生い立ち
隆家は979年に道隆の次男として生まれました。これで伊周と隆家コンビの爆誕です。そんなことはさておき、隆家は10歳の時に元服し武官として順調に昇進していったそうです。貴族らしい位というよりかは武士らしい位をもらう時点で幼いころから武に秀でていたことがわかりますね。ですが、順調には物事は上手くいきませんでした。なんと995年4月に道隆が亡くなりました。これで伊周が後を継げばなんとかなりました。ですが、実権を握ったのは伊周ではなく道長でした。
2.道長との対立
道長が実権を握ったことで道長と伊周は対立しました。それはそうですね。伊周からしたら自分が後継者になれると思っていたわけですし。この対立は隆家も加担します。なんと、道長が家督を継いだわずか2ヵ月後隆家の従者と道長の従者が乱闘事件を起こしました。それから、その翌月には隆家の従者が道長の随身を殺害する事件を起こしてしまいました。
3.長徳の変でメンツをなくす
それで終わりではないです。隆家は伊周と996年に長徳の変を起こします。きっかけは伊周の勘違いです。伊周は恋人がいました。それで、花山法王もその恋人と関係があると伊周は勘違いしました。実際は花山法王はその恋人の妹と関係があったんですけどね。そこで、伊周は起こり家来を引き連れて花山法皇の一行を襲いました。その際に隆家は花山法王の袖を弓で射抜いたそうです。また、2人は花山法皇の従者2人を殺害してしまいました。
4.左遷される
花山法皇は隆家への恐怖と隠居したのに女性の元に通うという体裁の悪さが重なって黙っていたそうです。花山法王は隠居しても女好きが変わらないんですね。ですが、噂はすぐに広まってしまいました。そのため、隆家は出雲国へと左遷され伊周も大宰府へと左遷されました。左遷といっても流罪ですけどね。これは定子が出家する原因にもなりました。ちなみに隆家は出雲国に赴任する途中に一旦病気を理由に但馬国に留まっていました。
5.京に戻ったとしても
998年隆家たちは恩赦によって京へ戻ることができました。理由は一条天皇のお母さんである藤原詮子が病気となり回復を祈るためです。恩赦を高めて治そうみたいな感じですね。京に戻れるのは報われましたね。そのため、隆家は京に帰ってからは反省して真面目に働くことにしたのか隆家はこつこつと昇進していきました。ですが、1000年に定子が、1010年が伊周が亡くなってしまいます。その影響で自分のことを支持してくれる人が消えてしまいました。
6.眼の治療のために太宰府へ
1012年の末頃隆家は尖ったもので目に傷を負いました。そのせいで眼病にかかってしまいました。そんな中、大宰府には腕の良い眼の医者がいるという噂を聞きます。そこで、隆家は大宰権帥に志願します。この役職は大宰府の仮長官と言ったものだそうです。
この依頼に対し道長は妨害します。理由は九州の勢力と隆家が結びつくのを警戒したからです。ですが、当時の天皇である三条天皇は隆家と同じ眼病を患っていたこともあり隆家の大宰府行きを後押したことから1014年11月にようやく大宰権帥に任命されました。
7.九州北部に不法侵入者が発生
大宰府に赴任した隆家は地元民たちに慕われいたためずいぶんと評判がよかったようです。隆家からしたら認められだと思うでしょうね。そんな時です。隆家が1019年に九州北部が外国の海賊に襲われるという事件が起こりました。これが「刀伊の入寇」です。刀伊とは当時の朝鮮半島を支配していた高麗の言葉で東の蛮族のことだと言われています。また、奴らは中国の北東部にいた女真と呼ばれる民族が主体だったと考えられています。女性なのに野蛮なのって?いや、女って言葉があるだけでおっさんの集団だと思います。
8.名誉挽回!刀伊の入寇!
対馬の国司は船で脱出し大宰府へ報告することができました。ですが、壱岐の国司は討死してしまいます。一方報告を受けた大宰府は博多にある警固所という防御施設で待ち受けることにしました。その警備の指揮を取った1人が隆家です。隆家らは刀伊を見事撃退し博多から追い払いました。ちなみに刀伊はその後、肥前国の松浦を襲いましたがそこを領していた武士団に反撃にあい朝鮮半島へ撤退していきました。さらに、刀伊は高麗国の水軍によって撃退され捕らわれた日本人300人が保護され無事に日本に帰って来られたようです。
隆家はこの出来事がきっかけで九州内での人気が上がりました。そのため、彼は後世の九州武士団には隆家の子孫を名乗る家も多いようです。
9.最期
同年12月に隆家は帰京しました。英雄たる隆家です。恩賞は与えられたものの昇進の機会が訪れることはありませんでした(中央政府は初めは朝廷からの支持を待たず隆家が独断で行ったことなので恩賞は不要とか言っていましたからね)。ただ、後朱雀天皇の長暦1037年には再び太宰権帥に任ぜられ1042年まで務め上げたあと、1044年1月1日に亡くなりました。
藤原隆家のエピソード
以上が隆家の人生です。勇ましさが糧となりましたね。そんな方だからこそ、エピソードはあります。ですので、これから話しますね!
1.ヤンチャボーイ
長徳の変から見ても察せますね。それだけではないです。花山法皇と賭け事に興じていたり大酒のみだったりといった逸話が当時の記録に残っています。その一方で容姿端麗なイケメンだったそうです。このようなことを踏まえると、隆家はちょっと悪い感じのワイルドな男って感じなんでしょうね。
2.自分の強みを生かす男
京都にも刀伊の入寇の情報は入っていました。しかし、京都の権力者たちは事態が収まることを祈るばかりで具体的な対策を出すことはしなかったそうです。そこで、隆家は頼りない政府の指示を待たず独断で決戦に臨み見事にやっつけました。自分の特技を生かして国のピンチを救う心があるってことですね。主体性が素晴らしいです。
3.自分の信念のある者
藤原実資に可愛がられた隆家は「小右記」に多く登場します。「小右記」には道長の嫌がらせがあった三条天皇の最愛の人こと娍子の皇后宮大夫を務めるなど信念のある態度には道長も一目置いていたと書かれていたそうです。大半の人は道長にいい顔をしていたのに隆家はあえて娍子の皇后宮大夫をしたってことですからね。これは三条天皇に御恩があったからやったことでしょうね。周りよりも自分の信念を貫いていることが伺えますね。
まとめ
若い頃はやらかしたものの、ちゃんと歴史に名前を残しましたね。彼がいなかったら今の日本はなかったのではと思いますよ。にしても、なんで他の貴族は呑気なんだよと思ってしまいます。また、集団の意見ではなく自分の意見を貫ける精神には尊敬します。そう考えると、彼はドラマでは見れない魅力もある方なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう
ピンバック: 平安最大の対外危機?刀伊の入寇と隆家の活躍 - Rikachu’s theory