どうも、りかちゅうです!平安時代にはあるおおきな外敵の危機がありました。それは刀伊の入寇です。学校の授業でも出てくるネタですかね?私は名前だけは知っていました。刀伊の入寇で日本の被害は大きかったです。特に現地なんて何もしていない人たちまでもが連れ去られたり殺されたりしました。そんな時に救ったのがあのちょい有徳の変で花山法王の裾を撃ち抜いた隆家です。彼は自身の武力と統率力でこの事件を解決しました。そのため、現地の人からは英雄扱いされました。このように、刀伊の入寇は隆家がいたから解決しました。ですので、この記事にて刀伊の入寇と隆家の活躍事情について話しますね!

刀伊の入寇って何?

「刀伊の入寇」とは1019年に起きた平安時代中期の外敵侵入事件のことです。刀伊とは高麗で「夷狄」を意味する言葉そうです。一方で日本では主に女真族を指します。え?女性の外敵なのって?違います。ただの名前負けです。普通に男性の外敵です。それで、その女真族が日本の対馬、壱岐、そして北九州の筑前国に大規模な襲撃を行った影響で多くの被害が発生しました。そんな時、九州の防衛を担当したのが伊周の弟こと隆家でした。

なぜ日本を狙ったのか?

その時期に日本を狙ったのには理由があります。実はその時期は東アジア情勢の大きな変化があったからです。詳細としては渤海国という国が10世紀に滅亡するとその地域の権力構造が混乱しました。その際に女真族や契丹などの北方民族が勢力を拡大しました。特に朝鮮半島の高麗と対立していた女真族は海を越えて活動範囲を広げていたため日本の沿岸もその標的となりました。

しかも、日本側は平安時代中期に入ると律令制が緩み地方の防衛力が低下していました。特に西国では外敵に対する備えが十分とは言えませんでした。そのため、刀伊の襲来のせいでその当時の日本は大きな被害を受けたのです。

それまでの海賊との違い

海賊の襲撃自体は刀伊の入寇に始まったわけではありません。九州北部ではかなり昔から朝鮮半島の海賊に悩まされていました。ですが、これまでの海賊は朝鮮半島にいるヤンチャな奴からの襲撃です。ですが、今回は野蛮人です。奴らは厄介です。野蛮人は日頃から死を目の当たりにしているため死に対して抵抗感が薄いです。そのため、略奪行為に合わせ残虐な行為を行う傾向があります。

刀伊の入寇の経緯

要するに、刀伊の入寇とは他の外敵よりも強いってことです。それなのに防衛力が弱くなっていたためその当時の日本は大変だったでしょうね。さて、一体どういった経緯で刀伊の入寇が起きたのか?

1.対馬と壱岐を襲撃

まず刀伊の集団は対馬と壱岐を襲撃しました。地元住民を次々と襲ったそうです。そして、刀伊の集団はその襲った人たちを虐殺するか捕虜として連れ去りました。しかも、防備が手薄だったため大きな被害を受けました。

2.九州北部に侵略する刀伊

刀伊の一団は、九州北部に上陸し博多湾を中心に侵略を続けました。この地域は歴史を学んでいる人は分かると思いますが古代から外交や交易の拠点であり経済的にも重要な場所でした。そのため、被害は大きく、多くの人々が命を落としました。

3.隆家の登場!

九州の防衛を担っていた隆家は迅速に行動を起こします。まず隆家は現地の武士や民兵を組織し刀伊の撃退に成功しました。この戦いでの隆家の指揮力と決断力は高評価です。そのため、のちに後に「刀伊の入寇を防いだ英雄」として名を残すことになります。隆家の活躍は次の項目で話しますね!また、隆家のことを知りたい人はこちらを見てください!

勇ましい貴族!藤原隆家とはどんな人?

隆家の活躍

刀伊の入寇は隆家のおかげで解決しました。では隆家は具体的にどのようなことをしたのか?

1.攻撃の匙加減が上手い

4月7日に刀伊が九州に上陸した後、13日までの間各地で防衛戦が繰り広げられました。隆家は裏で指揮をとるだけでなく自ら戦場に行き積極的に刀伊へ戦を仕掛けていきます。そして逃亡する刀伊を船で追い追撃戦を行うことも忘れません。理由は刀伊の船には対馬・壱岐でさらわれた日本人が多く乗っていたからです。ただ、高麗との外交問題に発展することを恐れた隆家は追撃戦はあくまで日本国境内に留めました。このように、隆家は統率力もあったそうです。

2.現地の武士を統率

隆家は現地の武士や兵士をまとめ上げ分散していた防衛力を統合しました。特に地元の海賊や船乗りたちの力を利用したそうです。隆家は武士としてのスキルだけでなく、リーダーとしてものスキルもあったとは思ってもなかったです。長徳の変のころから成長しましたね。また、刀伊の攻撃に関しては地の利を活かして彼らの進撃を阻止したそうです。地の利で戦えるってことは隆家は現地の地理感をちゃんと把握していたことでもありますね。

隆家を評価しない平安貴族

6月29日に太宰府から届いた勲功者リストを参考に会議が開かれました。しかし、その議論は「誰に勲功を与えるか?」ではなく、「勲功を与える必要があるかどうか?」という議論でした。非常事態を対処したのにと思いますよね?そんな議論になった理由は勲功を与える命令をしたのは4月18日だからそれ以前の戦について勲功を与える必要はないという考えがあったからです。お前らじゃなにもできないだろと言いたくなります。まあ、最終的には隆家は評価はされましたけどね。ですが、これをみても平安貴族は外敵への危機感は薄いのが物語られますね。

まとめ

平安時代って後ろになればなるほど貴族が堕落して武士の時代になるんですよね。敬意を簡単に話すと貴族の防衛をしていた武士の力が強くなって武士が目立っていく感じですね。この記事を見てもそれはそうだなとなりました。だってどう考えても貴族の戦力なんてそうないじゃないですか?外敵への危機感なんて見えないですし。一方で武士の方が隆家の指示に従って動いています。これを見ても武士の時代が来るのは理に叶っているなと思います(権力やステータスにこだわっているばかりだとポンコツにるのはこ言ういうことですね)。以上です!最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

りかちゅう

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